京都・東山花灯路2007 ~人々~
これで、「京都東山花灯路2007」の風景はほとんど網羅出来たんじゃないかと思います。
行っていない人にも少しでも様子が伝われば幸いです。
個人的に、一番感激したのは高台寺の「水鏡」。
ライトアップされた庭の風景が池の水面に手を伸ばしたら触れそうなくらいくっきりと映っていて、なんだかこの水面の中に別の世界がある様な、少しゾッとする様な美しさでした。
光っていうのはほんとうに不思議なもんで、京都のお寺なんかだと「歴史」とか「伝統」というイメージを持っていると思うのですけど、それを電気照明でライトアップするという行為は案外、そういった歴史や伝統・由来というものを「チャラにしてしまう」というか、「見た目が全て」になってしまって、悪く言うと軽薄なものになるという効果がある気がするんですよね。
たとえばその辺にあるくたびれたボロ屋と伝統ある文化財のお寺なんかを並べて見ると、昼間では雲泥の差が感じられても、夜同じ様にライトアップしてやるとこれはかなり差がなくなるというか、けっこう同じように「綺麗だなあー」と思ってしまうんじゃないかと思います。(「雪景色」とかでもそう)
この花灯路にしても拝観するようなお寺に限らず、ライトアップされたそのへんの道路とかコンクリートとかにも同じように雰囲気があったりする。
だからこそ、ただライトアップするのでは無しにお寺にある拝観物の特性を活かして、いかに光とからめて拝観物を演出するのかということが重要になってくるのかなと思いました。
そういう意味で高台寺の池とか、清水寺の闇に浮かんでいるような舞台の演出、知恩院の三門や八坂の塔の迫力あるライトアップ、まるで別世界に迷い込んだような不思議な気分にさせてもらえて、とても素晴らしかったです。
また、人がたくさん来ていたのですけど、この人がたくさんいるっていうことがなんだかワクワクさせるというか、お祭り気分になって楽しかった。学祭の時のあの気分。
祭りっていうのは結局、その中心にあるものというのは基本的にたいしたものじゃないのかもしれないと思います。
普段は何でもない、何にも無い場所などだとしても、そこへただ人がたくさん集まるということだけで、その空間にまるで「何かがある」という様な高揚した雰囲気の空間が作り上げられる気がするんですよね。
それで、楽しさが実質の数倍数十倍にも膨れ上がるという、そういうのが祭りなのかなあなんて
思いましたね。
行っていない人にも少しでも様子が伝われば幸いです。
個人的に、一番感激したのは高台寺の「水鏡」。
ライトアップされた庭の風景が池の水面に手を伸ばしたら触れそうなくらいくっきりと映っていて、なんだかこの水面の中に別の世界がある様な、少しゾッとする様な美しさでした。
光っていうのはほんとうに不思議なもんで、京都のお寺なんかだと「歴史」とか「伝統」というイメージを持っていると思うのですけど、それを電気照明でライトアップするという行為は案外、そういった歴史や伝統・由来というものを「チャラにしてしまう」というか、「見た目が全て」になってしまって、悪く言うと軽薄なものになるという効果がある気がするんですよね。
たとえばその辺にあるくたびれたボロ屋と伝統ある文化財のお寺なんかを並べて見ると、昼間では雲泥の差が感じられても、夜同じ様にライトアップしてやるとこれはかなり差がなくなるというか、けっこう同じように「綺麗だなあー」と思ってしまうんじゃないかと思います。(「雪景色」とかでもそう)
この花灯路にしても拝観するようなお寺に限らず、ライトアップされたそのへんの道路とかコンクリートとかにも同じように雰囲気があったりする。
だからこそ、ただライトアップするのでは無しにお寺にある拝観物の特性を活かして、いかに光とからめて拝観物を演出するのかということが重要になってくるのかなと思いました。
そういう意味で高台寺の池とか、清水寺の闇に浮かんでいるような舞台の演出、知恩院の三門や八坂の塔の迫力あるライトアップ、まるで別世界に迷い込んだような不思議な気分にさせてもらえて、とても素晴らしかったです。
また、人がたくさん来ていたのですけど、この人がたくさんいるっていうことがなんだかワクワクさせるというか、お祭り気分になって楽しかった。学祭の時のあの気分。
祭りっていうのは結局、その中心にあるものというのは基本的にたいしたものじゃないのかもしれないと思います。
普段は何でもない、何にも無い場所などだとしても、そこへただ人がたくさん集まるということだけで、その空間にまるで「何かがある」という様な高揚した雰囲気の空間が作り上げられる気がするんですよね。
それで、楽しさが実質の数倍数十倍にも膨れ上がるという、そういうのが祭りなのかなあなんて
思いましたね。